それではいつものように、解説をしながら解答を示すことにします。

 その前に問題の復習です。


次のア~ウは、普通選挙法が成立した前後のことがらである。これらのことがらを、年代の古い順に並べ、符号で書きなさい。

ア 原敬を中心とする本格的な政党内閣が成立した
イ 五・一五事件で犬養毅首相が暗殺された
ウ 第一次護憲運動が起こり、桂太郎内閣が退陣した




<解説>
 今日は大正時代から昭和時代前期にかけての政治の流れ、特に政党政治の歴史を問う問題でしたね。まずそれが分かることが必要です。


 それでは、明治時代中期にできあがった帝国議会の歴史から振り返ってみましょう。

1885年 内閣制度ができる(初代内閣総理大臣 伊藤博文)
1889年 大日本帝国憲法発布
1890年 帝国議会が開かれる
 大日本帝国憲法は、明治政府(特に伊藤博文など)が中心となり、イギリスやドイツなどの憲法を参考にして、わが国の歴史の流れを加味して作られた当時としては大変優れた憲法でした。帝国憲法の中には内閣制度についての規定がありませんが、帝国議会については規定が存在します。ですから、政府が本格的に内閣制度を敷き、それが中心となって憲法を作って、憲法に基づいて帝国議会が開催されたという流れを覚えておきましょう。今回のシリーズでは演習をしませんでしたが、この流れは明治の政治史で狙われてもよいところの1つだと思います。丸暗記でいくよりも理解をしてから覚える方が記憶に残ります。


 さて、日露戦争(1904年)以降、内閣は旧薩摩藩や旧長州藩出身者などが中心となった藩閥内閣と政党が交互に政権を担当し、明治末期においては桂太郎と西園寺公望が交互に政権を担当していました。しかし、大正初期において第3次桂太郎内閣ができた直後に引き起こした政治の混乱を受けて政党による政治をすべきだと主張した人たちが一般市民(世論)を動かし、一大政治運動が起こりました。これが第一次護憲運動(1912年)です(ウ)


 その後、平民出身で立憲政友会という政党の原敬が内閣を組織し(1918年)、本格的な政党内閣ができました(ア)。原敬内閣は教科書でも人気があったと大きく取り上げられていますが、実体は地方や自分の選挙区に鉄道を敷くことを約束するといった地元への利益誘導により支持された内閣です。その点、戦後の田中角栄元首相に似ています。その後、原敬首相が所属していた立憲政友会の汚職事件が発覚し、政党政治への不信感を持った人たちが立ち上がり、最後は残念なことに東京駅で暗殺されてしまいます。


 その後、政党政治は一度は下火を迎えますが、普通選挙法(1925年)が施行され、政党政治が復活します。しかし、1929年に世界恐慌が起こりそれが日本に波及し、それに対する景気対策を行おうとしますが、なかなか効果をあげません。また、政党とそれを支援する財閥がつながったりして政党政治に対する不満も高まります。さらに、外交においても失政が続き、いよいよ政党政治に対する不満が爆発します。1932年5月15日に、当時の犬養毅首相が政党政治に不満を抱いていた軍の関係者によって暗殺されてしまい、結果として政党政治は幕切れをむかえます。これが五・一五事件です(イ)


 今日の問題はいかがでしたか?絶対に覚えておいてほしい年号は五・一五事件ぐらいですが、歴史の流れという面では(ウ)→(ア)の流れも、年号は知らなくても、知っておいてもらいたいところです。


<解答>
ウ→ア→イ