今回は、江戸時代の大まかな歴史の流れを押さえていきましょう。

 まずはいつもやっていることですが、江戸時代は全体の中のどこの位置づけなのかを知っておく必要があります。いつもやっていることですが、「面倒だな」と思ってやらないと、いつまで経っても頭の中には入っていきませんよ。記憶は「繰り返す」ことでしか定着しませんからね。

era

 武士の時代の一番最後ですね。「武士の時代は将軍の名前で歴史の流れを押さえましょう」が鉄則でした。それではこれを踏まえて、並び替え問題を解いてみましょう。
<問い> 
 次に掲げる征夷大将軍について、「古い→新しい」の順に並び替えなさい。

ア 徳川家光  イ 徳川慶喜  ウ 徳川家康 エ 徳川吉宗  オ 徳川綱吉








 
<解説>
 江戸時代は約260年以上続いた時代です。この時代に政治の実権を握ったのは徳川家です。

era

 武士の時代の最後ですが、やっぱり将軍の名前で時代の流れを押さえるのが鉄則なのは変わりません。将軍の名前を順番におぼえながら、時代の特徴を押さえてもらえればと思います。

江戸時代の流れ
前期について

 前期は、幕府の支配体制を確立した時期であったといえます。

 江戸幕府を開いたのは徳川家康(とくがわいえやす)です。この時、西暦でいうと1603年。徳川家康は豊臣秀吉に従っていましたが、豊臣秀吉が亡くなった後に一番力を持っていた徳川家康が天下取りに名乗り。あくまで豊臣秀吉の息子の豊臣秀頼を盛り立てて豊臣政権を安定させたいと考えていた石田三成(いしだみつなり)たちと対立し、1600年に岐阜県の関ヶ原で激突します。それが関ヶ原の戦いです。

 これに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に任ぜられ、江戸に幕府を開きます。






 3代将軍の徳川家光(とくがわいえみつ)の時代には、キリスト教の禁教政策を強化し、外国との貿易についての規律も整えました。最終的には、キリスト教を広めないことを約束したオランダとチャイナ地域に新たな王朝を建てた清(しん)以外の船の来航を禁止し、しかも場所を長崎の出島(でじま)だけとしました。この政策のことを一般的に鎖国(さこく)と言います。また、幕府と各大名(藩)との関係を厳しく規律しました。こうして幕府に反対する勢力を強力に取り締まっていきました。


中期について

 次に中期ですが、幕府の政治が安定し、武力に代わって朱子学を中心とした学問の力によって世の中を治めていた時代です。

 ここで押さえるべき将軍名は5代将軍の徳川綱吉(とくがわつなよし)。この時代には大坂や京都などの上方(かみがた)を中心とした元禄文化(げんろくぶんか)が花開きます。この時代には動物愛護を理念とした生類憐みの令(しょうるいあわれみのれい)が出されました。

 徳川綱吉が死亡した後、飢饉(ききん)、つまり米の不作などの影響で人々が飢えに苦しむ時代がやってきて、幕府の財政も苦しい状況におかれてしまいました。


後期(改革期)について

 それを改革しようと取り組んだのが、8代将軍の徳川吉宗(とくがわよしむね)です。ここから後期(改革期)が始まります。徳川吉宗が行った一連の政策のことを享保の改革(きょうほうのかいかく)と言います。くわしくは本論編でじっくりやりますが、簡単に言えば、質素倹約(しっそけんやく)して、お金が幕府から出ていかないような方向性で政策を実行していきました。また、質素倹約の政策の効果は一般庶民にも及んでいきました。

 庶民目線の政策は善い政治であったと言えるかもしれませんが、不景気を解消するには経済活動を活発化させなければなりません。しかし、一般庶民にも質素倹約を勧めたので経済状態が良くなりませんでした。そこで、徳川吉宗が亡くなった後に田沼意次(たぬまおきつぐ)という人が、徳川吉宗とは真逆の経済政策を取りました。しかしながら、田沼意次は政治家の権力争いに敗れてしまったため、次に徳川吉宗と同じ路線で松平定信(まつだいらさだのぶ)寛政の改革(かんせいのかいかく)、さらに水野忠邦(みずのただくに)天保の改革(てんぽうのかいかく)を行いましたが、改革はうまくいきませんでした。


幕末期について

 その後、1853年にアメリカのペリー提督が率いる黒船が日本に来航したことがきっかけとなって鎖国政策を転換しました。アメリカやヨーロッパの国々が相次いで日本にやってきて幕府はこれに対応しますが、次第に幕府の力は弱くなり、15代将軍の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が政権を朝廷に返しました。これが大政奉還(たいせいほうかん)です。



 まずは大まかに歴史の流れをつかみましょう。やることが多いなぁと感じる人は、まずは人物名が出てくるようにしましょう。

 

<解答>
ウ→ア→オ→エ→イ