平成29年度の岐阜県公立高校の入試問題では並び替え問題が2題出題されていますが、いっしょに考えていきましょう。
皆さんなりに解答はできたでしょうか?
それでは解説を始めたいと思います。
「19世紀半ばのペリーの来航によって社会は動揺し、その後、幕府は崩壊していった」 について、次のア~ウのことがらを、年代の古い順に並べ、符号で書きなさい。
ア 大老の井伊直弼が、幕府に反対した大名や武士、公家を処罰した。
イ 坂本龍馬が仲立ちをし、長州藩と薩摩藩が同盟を結んだ。
ウ 幕府は日米和親条約を結び、下田(静岡県)と函館(北海道)の2港を開いた。[平成29年度岐阜県公立高校1-8]
皆さんなりに解答はできたでしょうか?
それでは解説を始めたいと思います。
テーマは幕末ですね。幕末は歴史の好きな人であればウェルカムな分野かもしれませんが、急に押さえておかなければならない知識が増える時代でもありますから、なかなか対策も大変だと思います。
覚えなければならない知識が増えてくると、精神的にヤラれますね。勉強したくなくなります。勉強しなければできるようになりませんから、こうして見事に苦手が作られるわけです。そういう場合は、まずはざっくりと特徴をつかんでしまって少しずつ細かいところを勉強すると勉強がしやすくなります。勉強の基本は繰り返しですから、少しずつ細かいところに入っていきながらも同じところを何度も勉強できます。最初は理解できなくてもあせらないことが大切です。
今回は先に解答を示した後の方が解説がしやすいので先に解答を示し、その後解説をしてみたいと思います。
<解答>
ウ→ア→イ
<解説>
ウ 幕府は日米和親条約を結び、下田(静岡県)と函館(北海道)の2港を開いた。
まず1853年にアメリカのペリーが浦賀(現在の神奈川県)にやってきます。黒船来航というヤツです。アメリカは捕鯨船(ほげいせん)の燃料などを補給するための寄港地がほしいという理由で日本に開国を迫ります。幕府は1年待ってくれと結論を先送りにしますが、アメリカは1年を待たずに年が明けた1854年に再び日本を訪れ、強硬に開国を要求しました。江戸湾で大砲(といっても空砲ですが...)をぶっ放していたので、これ以上日本に危害があるとマズイと考えた幕府は日米和親条約を結びました。条約の内容は次の通りです。
さて、日米和親条約を結んだアメリカは今度は通商条約の締結を考えます。幕府は天皇に条約の締結をどうすべきかを聞くことにしました。朝廷は「外国勢力を追っ払え!」という攘夷派(じょういは)が多くいて、時の天皇であった孝明天皇(こうめいてんのう)も難色を示しました。朝廷にダメだと言われると幕府も開国の方向に舵を切りにくくなります。一方のアメリカ側は、日本の隣国であった清がイギリスとフランスとの戦争に敗れ(アロー戦争)、今度は日本が英仏に攻められることになるから、オレ(アメリカ)と仲良くした方がいいぜ!と言ってきます。幕府は板挟み状態になりましたが、結果として通商条約の締結に踏み切りました。これが西暦1858年の日米修好通商条約です。主な内容は次の通りです。
ア 大老の井伊直弼が、幕府に反対した大名や武士、公家を処罰した。
開国についてどうすべきかの判断を迫られ、天皇の許しが得られていないまま通商条約締結を行ったのが井伊直弼(いいなおすけ)という人物です。井伊直弼はこれまで幕府が先送りにしてきたこの問題を片付けた一方で、いわゆる攘夷派(じょういは)には手を焼いていました。攘夷派というのは、「外国船が来たら追っ払え」という人たちです。日本とアジア、アフリカ諸国で圧倒的な力で植民地を手に入れてきた欧米諸国との国力に差があるのにもかかわらず、どうやって外国船を追い払うことができるのか?という問いに答えることができない攘夷派に対して苛立っていました。井伊直弼は、攘夷派を粛清(しゅくせい)、つまり不正なものだからという理由で処罰することを考えました。これが安政の大獄です。これによって多くの攘夷派が殺されました。有名どころでいえば、吉田松陰(よしだしょういん)はこれによって殺されました。
いくらなんでもちょっと強引にやりすぎた井伊直弼は人々の反感を買ってしまいます。天皇に対する忠誠心に熱いと言われる水戸藩の武士などが中心となって江戸城の桜田門で殺されました。これが桜田門外の変です。選択肢のアはそれを意味しています。
イ 坂本龍馬が仲立ちをし、長州藩と薩摩藩が同盟を結んだ。
やや強引な政治手法で失政した井伊直弼の死後、幕府と朝廷が手を取り合って日本の政治を行おうという考え方が登場します。これが公武合体(こうぶがったい)という考え方です。これに積極的に関わったのが、外様大名であった薩摩藩です。一方、有力な外様大名の1つであったのが長州藩で、長州藩は「天皇を敬い、外国船は打ち払え」という尊王攘夷(そんのうじょうい)という考え方を持っていました。
この2つの藩は、薩摩藩は幕府側、長州藩は朝廷側についていたので仲良くありませんでした。しかし、両藩とも欧米列強と戦うことで次第に討幕(とうばく)へと藩の考え方が変わっていきました。この藩の仲立ちをしたのが坂本龍馬でした。そして、西暦1866年に薩長同盟が結ばれました。
このあたりはできごとが複雑に絡み合っているので1度で理解するのはなかなか難しいです。上の解説は、幕末に起きたできごとの一部をかいつまんで説明したにすぎません。ぜひ教科書や年表などを使って、まずは暗記でなくてストーリーを追ってみましょう。流れがある程度理解できたところで少しずつ覚えていきましょう。
覚えなければならない知識が増えてくると、精神的にヤラれますね。勉強したくなくなります。勉強しなければできるようになりませんから、こうして見事に苦手が作られるわけです。そういう場合は、まずはざっくりと特徴をつかんでしまって少しずつ細かいところを勉強すると勉強がしやすくなります。勉強の基本は繰り返しですから、少しずつ細かいところに入っていきながらも同じところを何度も勉強できます。最初は理解できなくてもあせらないことが大切です。
今回は先に解答を示した後の方が解説がしやすいので先に解答を示し、その後解説をしてみたいと思います。
<解答>
ウ→ア→イ
<解説>
ウ 幕府は日米和親条約を結び、下田(静岡県)と函館(北海道)の2港を開いた。
まず1853年にアメリカのペリーが浦賀(現在の神奈川県)にやってきます。黒船来航というヤツです。アメリカは捕鯨船(ほげいせん)の燃料などを補給するための寄港地がほしいという理由で日本に開国を迫ります。幕府は1年待ってくれと結論を先送りにしますが、アメリカは1年を待たずに年が明けた1854年に再び日本を訪れ、強硬に開国を要求しました。江戸湾で大砲(といっても空砲ですが...)をぶっ放していたので、これ以上日本に危害があるとマズイと考えた幕府は日米和親条約を結びました。条約の内容は次の通りです。
- 下田と函館の開港
- 入港する船に燃料・食水などを補給こと
- 下田に領事館を置く
- 貿易については規定なし
さて、日米和親条約を結んだアメリカは今度は通商条約の締結を考えます。幕府は天皇に条約の締結をどうすべきかを聞くことにしました。朝廷は「外国勢力を追っ払え!」という攘夷派(じょういは)が多くいて、時の天皇であった孝明天皇(こうめいてんのう)も難色を示しました。朝廷にダメだと言われると幕府も開国の方向に舵を切りにくくなります。一方のアメリカ側は、日本の隣国であった清がイギリスとフランスとの戦争に敗れ(アロー戦争)、今度は日本が英仏に攻められることになるから、オレ(アメリカ)と仲良くした方がいいぜ!と言ってきます。幕府は板挟み状態になりましたが、結果として通商条約の締結に踏み切りました。これが西暦1858年の日米修好通商条約です。主な内容は次の通りです。
- 横浜(神奈川県)、神戸(兵庫県)、函館(北海道)、長崎、新潟を開港すること
- アメリカに対して領事裁判権を認めること(=治外法権)
- 関税はあらかじめ両国で協議すること(関税自主権がない)。
ア 大老の井伊直弼が、幕府に反対した大名や武士、公家を処罰した。
開国についてどうすべきかの判断を迫られ、天皇の許しが得られていないまま通商条約締結を行ったのが井伊直弼(いいなおすけ)という人物です。井伊直弼はこれまで幕府が先送りにしてきたこの問題を片付けた一方で、いわゆる攘夷派(じょういは)には手を焼いていました。攘夷派というのは、「外国船が来たら追っ払え」という人たちです。日本とアジア、アフリカ諸国で圧倒的な力で植民地を手に入れてきた欧米諸国との国力に差があるのにもかかわらず、どうやって外国船を追い払うことができるのか?という問いに答えることができない攘夷派に対して苛立っていました。井伊直弼は、攘夷派を粛清(しゅくせい)、つまり不正なものだからという理由で処罰することを考えました。これが安政の大獄です。これによって多くの攘夷派が殺されました。有名どころでいえば、吉田松陰(よしだしょういん)はこれによって殺されました。
いくらなんでもちょっと強引にやりすぎた井伊直弼は人々の反感を買ってしまいます。天皇に対する忠誠心に熱いと言われる水戸藩の武士などが中心となって江戸城の桜田門で殺されました。これが桜田門外の変です。選択肢のアはそれを意味しています。
イ 坂本龍馬が仲立ちをし、長州藩と薩摩藩が同盟を結んだ。
やや強引な政治手法で失政した井伊直弼の死後、幕府と朝廷が手を取り合って日本の政治を行おうという考え方が登場します。これが公武合体(こうぶがったい)という考え方です。これに積極的に関わったのが、外様大名であった薩摩藩です。一方、有力な外様大名の1つであったのが長州藩で、長州藩は「天皇を敬い、外国船は打ち払え」という尊王攘夷(そんのうじょうい)という考え方を持っていました。
この2つの藩は、薩摩藩は幕府側、長州藩は朝廷側についていたので仲良くありませんでした。しかし、両藩とも欧米列強と戦うことで次第に討幕(とうばく)へと藩の考え方が変わっていきました。この藩の仲立ちをしたのが坂本龍馬でした。そして、西暦1866年に薩長同盟が結ばれました。
このあたりはできごとが複雑に絡み合っているので1度で理解するのはなかなか難しいです。上の解説は、幕末に起きたできごとの一部をかいつまんで説明したにすぎません。ぜひ教科書や年表などを使って、まずは暗記でなくてストーリーを追ってみましょう。流れがある程度理解できたところで少しずつ覚えていきましょう。